「外部に自由はなかった!? ― 脳コントロールから始まる人間性の拡充」
注意:この記事は、自分の考えを整理するために書いています。脳を意識することで見えてきた内面的な変化を残すための、あくまで主観的な記録です。その旨ご了承いただければ幸いです。
結論
「人間性を拡充することこそが「真の自由」への道につながる」
そう思うようになりました。
気づきのきっかけはとてもシンプルで「自由とは何か?」と改めて自分に問い直したことです。
どうやらお金や時間が十分あっても「自由を感じられない」人がいるようです。
逆に制約が多くても「心の自由」を感じている人もいるらしい。
この違いはどこから来るのか?
そこにヒントがあるように思います。
この記事では、
「人間性の拡充と自由はどうつながるのか?」
というテーマで考察します。
人間性とは何か
まず、人間性とは何か?を私なりに整理しました。
人間性とは「抽象的な理想」や「表層的な親切」や「建前の礼儀」ではなく、日常に表れる「内面の姿勢」だと私は考えます。
例えば
- 押しつけのない相手への思いやり
- 無礼に対する毅然(きぜん)とした態度
- 自然への畏敬の念(いけいのねん)
- 生存そのものへの感謝
- 善悪の判断に伴う善良的思考や行動
こうしたものが「人間性」と言えるのではないでしょうか。
そしてこれは、知識や経験や感性を通して少しずつ増幅し磨かれていく「人間の内面」そのものだと思います。
ゴールがあるわけではなく、むしろ個人の性質や経験に応じて形が変わるプロセスです。
険しい山に挑む者は「自然への畏怖」を実感するかもしれません。
子育てを経験した人は「思いやりの深さ」に気づくかもしれません。
それぞれ「揺らぎの中で得られた感情の動き」が、人間性を拡充していくのだと考えます。
真の自由は外部にはない
多くの人は「もっと時間さえあれば」「もっとお金さえあれば」「もっと地位やモノがあれば」自由になれると考えがちです。かつての私もそうでした。今も少しはそう思うところもあります。
しかし、それらは根底ではコントロールできません。(表面的、一時的に自由を与えてくれることはあるかもしれませんが、、)
あくまでも「条件付きの自由、制限のある自由、外部に依存した自由」で、社会や環境など外部状況が変われば瞬く間に失われる不自由な自由です。
強いて言えば「かりそめの自由」と言えるかもしれません。
では、真の自由とは?
私は「外部の人工的社会や物質的条件」ではなく、むしろ「自分の内部の在り方」にこそ自由があるのではないかと思うようになりました。
言い換えると:
- 外部の自由=脳が刺激に反応している
- 内部の自由=脳を意志や意識で動かしている
この差が「人間性の拡充と真の自由」の要(かなめ)になるのだと思います。
例えば:
- 渋滞にハマったとき「イライラ反応」で終わるか「好きな音楽を聴ける時間だ」と受け取れるか
- 他人の不機嫌な態度に「かわいそうに、きっと家庭や職場で嫌なことがあったのだろう」と切り替えられるか
同じ状況でも、内面の捉え方次第で自由の度合いはまるで変わります。
まさにその瞬間が「人間性の拡充の実践=脳のコントロール」だと感じます。
前頭前野と自由の関係
自由と深く関わるのが「前頭前野」です。
前頭前野と聞くと専門的に聞こえますが、要するに「人間らしく考えられるブレーキ役」のような場所で、衝動を抑え未来を見通し他者への共感を育む、人間らしさの源とされています。
前頭前野がうまく働いていると、外部刺激に即座に反応する条件反射のような行動から「自分はどう選ぶか、もしくは自分はどう生きるか」を意識できるようになるようです。
逆に言えば、ここが十分に機能しなければ「外部刺激に振り回される存在」になってしまう可能性があります。
前頭前野の働きは身体の状態に大きく左右されるようです。
- 睡眠不足 → 前頭前野の活動低下 → 衝動的な判断が増える
- 運動不足 → 脳への血流低下 → 集中力や意欲の低下
- 栄養バランスの乱れ → 神経伝達物質が不足 → 感情コントロールが難しくなる
こうした背景から「身体を整えることは健康の為だけではなく、自由を得るための土台」とも言えるのではないでしょうか。
逆に言えば「不健康、不健全こそ、自らを縛り不自由にさせる手かせ足かせ」と言えそうです。
バランスと調和の重要性
とはいえ、前頭前野だけで人間が成立しているわけでも、活動しているわけではありません。
- 扁桃体 → 恐怖や怒りなどの感情を司る
- 海馬 → 記憶を整理する
- 小脳 → 身体感覚を調整する
それぞれが役割を持ち、全体の調和で「自分」という存在が成り立っています。
もし前頭前野だけを過剰に重視すれば、思考過多になり柔軟性を失う可能性もあります。
逆に感情ばかりに偏れば、気分に振り回されてしまう危険もあります。
私事ですが「完璧に理性的に振る舞おう」とした時期がありました。自制や客観的視点を重視するあまり、心の柔軟性を失ったことがあります。燃え尽き症候群のように疲れ切ってしまい、回復に数ヶ月の時間がかかった経験があります。
やはり大事なのは「バランス」。
当たり前に聞こえるかもしれません。
しかし「バランス」が実際に腑に落ちるのは、失敗や行き詰まりを経験したときで、成功体験や正解だけを追求しただけでは不十分(アンバランス)、失敗や間違いを経験することで調和の大切さが身に沁みてわかるのです。
ニュートラル脳への回帰
結局のところ、私がもっとも重要だと思うのは「自分で脳をコントロールする」つまり「ニュートラル脳」へ戻れるかどうかです。
人生は感情・思考・欲望に揺さぶられます。
そこで
- 感情に飲み込まれても「気づきと呼吸」で戻る
- 思考に偏りすぎても「呼吸と運動」で戻る
- 快楽に走りすぎても「意識と自制」で戻る
など
その揺れから「平常心=ニュートラル脳」に戻れるかが大切だと考えます。
自由は大きな決断の結果から得られるだけでなく、日常の小さな選択の積み重ねに宿るのかもしれません。
小さな決断の例を挙げると:
- 夜中にスマホを見すぎて「あと5分だけ…」が1時間経過してしまったとき。そんな時でも「これは快楽物質の反応のせいだな」と気づいて電源を切れるかどうか
- ダイエット中にコンビニで余計なお菓子を買いそうになり「ドーパミンに操られてる」と気づいて踏みとどまりダイエットを継続できるかどうか
この「戻る力」が平常心を支え、人間性を少しずつ拡充させていくのではないかと思います。
まとめ
- 人間性の拡充とは、「ニュートラル脳」に戻る稽古の積み重ね
- 真の自由とは「内面の在り方」にある。外部の人工的条件はあくまでも補助的手段である
- 身体を整えることは「自由を支える物理的な土台」になる
自由や人間性は特別な状況で得られるものではなく「日々の小さな揺れからどう戻るか」の体験、そして「その反復」の中にこそ育まれるものなのではないでしょうか。
読者への問いかけ
あなたが「ニュートラル脳」に戻ったと実感できる瞬間は、どんな時ですか?
たとえば「散歩中に空を見上げたとき」「温かい飲み物を飲んだとき」など。
ふと“ああ戻ったな”と感じる瞬間はありませんか?
※備考(参考文献)
『デカルトの誤り―情動、理性、人間の脳』筑摩書房, アントニオ・R・ダマシオ
『脳を鍛えるには運動しかない!』ジョン J. レイティ


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